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我々早大山岳部一行四人は、新雪の北アルプス唐松岳を目指した。
八方屋根にキャンプをはった我々は、吹雪の中に、三日間を過さな
ければならなかった。そして、同じ仲間が明神岳で遭難した事をラ
ジオで知ったのだ。その頃、八ツ岳に向った東海大学の三人の仲間
も吹雪の中に若い命を失った。一方、十勝岳を目指した北海道大学
のパーティも厳しい寒さの中で次々と凍死、二人は冷たいなきがら
となって山を降りていった。我々は明神岳の友の救援に向った。明
神岳の氷壁は険しい。川村君達四人はあの屋根を登っている時に大
きななだれが起きて谷底に流されたのだ。遺体の捜索は困難をきわ
めた。この谷底に四人の友は眠っている。
今シーズンすでに十九人の犠牲者が出ているという日本の冬山はヒ
マラヤより恐しいのだ。
しかし今月も吹雪の中を行く若いアルピニスト達。我々は更に新し
い目標に向って登りつづける。
氷壁の彼方に秘められた不思議な山の魅力を求めて。
(作品No.NAJ0700-03)
(昭和33年12月28日公開)
高知県の山深い仁淀村にやって来た社会党の議員団は、日教組の小
林委員長らに加えられた暴行事件の模様を聞いて、今更の様に驚い
ています。けわしい空気から逃がれ、高知市へ移った日教組支持派
の二十二人の子供たちは傷ついた先生と一緒に勉強していました。
『暴力で迫っても愛する子供と教員を奪えません』と云う小林委員
長。『偏向的な日教組より愛する子供を懐にとり戻した』と父兄は
いっています。こうして暴行事件をきっかけに学校は一先ず冬休み
に入りました。
この小さな村で、そして日本中で親たちと先生と子供とを結ぶ糸は
ほぐれないまま、勤評問題は新しい年の宿題として残された様です。
(作品No.NAJ0700-01)
(昭和33年12月28日公開)
一九五八年の日本の空をつき破って巨大な東京タワーが完成、日本
の顔を大きくつくりかえました。
五月二十二日、二大政党下初の総選挙が行われ第二次岸内閣が成立
しました。
ブームに湧いたプロ野球。濠州コンラッズと日本山中の顔合せなど
スポーツ界も幾多の話題に賑わいました。五月には東京で第三回ア
ジア競技大会が二十ケ国、千七百余名の若人を集め美と力の祭典を
くりひろげました。
四月十九日、二十世紀最后の金環食、すばらしい太陽のリングでし
た。
くるくる廻るフラフープもあっという間に大流行、ロカビリーも熱
病のように拡がり大変な騒ぎでした。梅雨どきからかびのようには
びこった暴力団。売春防止法も四月一日から発効、しかしもぐり売
春は後をたちません。神風タクシーと共に暴走した神風トラックも
大きな社会問題となりました。
毎年のようにくりかえされる台風と水害。通り魔の春の嵐に南海丸
が沈没、八月十二日全日本空輸機が三十三名をのせて消息をたちま
した。九月二十七日台風二十二号は静岡県の伊豆地方に大きな惨禍
をもたらし死者、行方不明一千名という大きな被害でした。
自衛力増強や安保条約改定が表面化した折もおり、秋の北海道原野
に大規模な自衛隊の大演習が行われ、陸揚げでもめたエリコンも公
開されました。
千羽鶴の祈りをこめた広島、東京一千キロ平和行進も百万以上の人
々が参加して行われました。低い姿勢の労働運動も日教組は「勤務
評定」をめぐって政府に対立。九月十五日ついに教育ストに突入力
と力が激突しました。十二月十五日、高知県では闘争反対の父兄達
に日教組の小林委員長が暴行うけるなど、ストの波紋は広くなお緊
迫した状態です。一方労使の対立した王子製紙争議は、更に組合が
二つに割れ、労働基本権をめぐって泥沼闘争を続けました。十二月
九日まで延々百四十五日の闘争でした。
「警察国会の再現」と真向うから世論の反撃を浴びた警官職務執行
法改正で国会は大混乱、遂に審議未了。文化交流の先陣を承って淡
路人形一座がソビエト行きで日ソ親善の一役を担いました。五月イ
ランからパーレビ国王。十二月にはフィリピンのガルシア大統領夫
妻が来日しました。十一月二十七日、テニスがとり持つ縁で、めで
たく皇太子妃が決定しました。警職法の無理押しを断念した岸首相
十一月二十二日両党首会談にこぎつけ、変則国会の責任をかぶった
星島議長、椎熊副議長退き、加藤正木氏が代って就任、国会は漸く
正常に戻りました。ナベ底景気の押しせまった師走にあらわれたの
が一万円札。来る年はせい一杯の景気づけか。往き交う人波もあわ
ただしく、名残り惜し気にいつまでもまたたいているネオン。過ぎ
ゆく一九五八年の日本の表情です。
(作品No.NAJ0699-01)
(昭和33年12月22日公開)